地に足を着けて活きる – 「今ここ」を実感すること –

地図アプリを開き目的地を見つけ出したら、付近の交通網、地形、交通経路と確認をしていき、娘と相談をしながら行程を決めてゆく。
これは、もう、何度も行ってきた仕事。
だけど、未だ新しい気持ちを私に抱かせてくれる仕事。

この仕事に臨む際、たまに考えることがある。
世の子どもを持つ親たちは、自分の子どもが私の娘のようになったら、どうするのだろう?
それまでママ友として比較的仲良く接していた人に娘のことを話したところ、後日、「(宗教の)勧誘?」と言ってきたことがあった。
例えばそんな人のところに、こういう子どもがやってきたら、どうなるのだろうか?と。

一方で、娘の話をしたことがきっかけで、深く話すに至った人もいた。
ご主人が「視える」人なのだと打ち明けてくれた人や、「自分もそうなんだ」「だけど今まで誰にも話したことは無かった。話せなかった」と告白してくれた人もいた。
皆さん、娘と会うことを望んでくれ、そして実際に接する機会を得ることが出来た。
皆、地に足を着けて現実のど真ん中を生きている人たちだった。

つくづく思う。
神様は地に足が着いている人のことを応援してくれる。

娘は稀に先達することもあるのだけれど、「一緒に行く」のは、現実世界を頑張っている人に限られている。今振り返ってみても、社会に揉まれて頑張っている人のことしか先達していない。
「一緒に行きましょう」と言ってくる人は少なくはなかったけれど、誘われても娘が乗ってこなかったためどれも実現はしていない。
つまりはそういうことなのだろう。

“スピリチュアル”という言葉は危険をはらんだ言葉である。
本来、コーチングの資格を持ち活動している人間は、経営者以上に経営のことを理解(=経験)している必要があるのと同じで、「スピリチュアル」を生業としている人は、自らの肉体を以って、今の時代のど真ん中で、社会経験を積む必要がある。

私は昔から霊能者をはじめとした能力者の方たちと知り合う機会が多かったのだけれど(しかしまさか娘がこうなるとは思ってもいませんでした)、そうした方で〝スピリチュアルが自分の拠り所になっている人〟はほんとうに多くて、「その人の意思」をもとに話をしようとしても「上がこう言ってる」だの「それは後ろが決めること」「上はやらなくていいって言っています」だの言う人が!もう!!多過ぎて!!!果ては「私の意思ではないので」
いや、〝お前〟の意思はどこにあるんだよ??!!!!
何度心の中で叫んだのかは覚えていない。
あとはやたらと「神の啓示」を振りかざす人も多かった。自分のことを棚に上げて何を言っているんだろうこの人は…。
何度げんなりしたのかは覚えていない。

生身の身体で今ここに生きている以上、私たちがやるべきことは「今ここ」を実感することだ。
今目の前にある物事に一生懸命になることなんだ。

で終わります。